おイネさんは1827年、長崎に生まれ、76歳の1903年に東京で亡くなり、お墓は長崎にあります。
その間、世の中は江戸から明治へと大変化。おイネさんは、当時偏見の対象だった西洋人との混血で、目指したものは前代未聞の女性医師でしたが、日本初の女性産科医となり、明治天皇の第1子を取り上げます。
信じられないような身内の不幸にも度々さいなまれ絶望の淵に立たされましたが、幾度も立ち上がり、長寿をまっとうしました。
西暦 | 日本暦 | イネの略歴 | 年齢 | 日本の出来事 |
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1804年 | 文化1年 | 二宮敬作、磯津村(現八幡浜市保内町)に誕生 | ||
1819年 | 文政2年 | 敬作、蘭方医を目指し、長崎へ遊学 | ||
1823年 | 文政6年 | シーボルト来日。敬作、門下生となる | ||
1824年 | 文政7年 | シーボルト、鳴滝塾を開設し、診療と学術研究を始める 村田蔵六、周防(山口県)に誕生 | ||
1825年 | 文政8年 | 高野長英、シーボルトに入門 | 異国船打ち払い令が出る | |
1826年 | 文政9年 | シーボルト、将軍家斉に謁見。敬作も江戸へ随行 | ||
1827年 | 文政10年 | イネ、長崎に誕生 | 0歳 | |
1828年 | 文政11年 | シーボルト事件おこる | ||
1829年 | 文政12年 | シーボルト、国外追放。敬作、入獄 | ||
1833年 | 天保4年 | 敬作、宇和島藩主の内命で卯之町に蘭方医を開業 | ||
1839年 | 天保10年 | 三瀬周三、大洲に誕生。長英、入獄 | 蛮舎の獄 | |
1840年 | 天保11年 | 卯之町の敬作に入門 | 13歳 | アヘン戦争 |
1841年 | 天保12年 | 天保の改革 | ||
1845年 | 弘化2年 | 敬作、帯刀を許される 長英、脱獄 | ||
岡山の石井宗謙に入門し、産科医を目指す | 18歳 | |||
1848年 | 嘉永1年 | 長英、宇和島に潜伏し、蘭書翻訳や藩士教育にあたる | ||
1849年 | 嘉永2年 | 長英、卯之町に潜伏 | ||
1850年 | 嘉永3年 | 長英、処刑 | ||
1852年 | 嘉永5年 | 娘、タダ(高子)出産。長崎へ帰郷 | 25歳 | |
1853年 | 嘉永6年 | 宇和島藩が村田蔵六をスカウト | アメリカの使節ペリーが浦賀に来航 | |
1854年 | 安政1年 | 卯之町の敬作に再入門。蔵六から蘭学などを学ぶ | 27歳 | 日本海国-日米和親条約調印 |
1854年 | 安政2年 | 敬作が準藩医(武士)となり、宇和島城下へ移る | アメリカの使節ペリーが浦賀に来航 | |
1858年 | 安政5年 | 敬作、周三と共に長崎へ帰郷し、医院を開業 | 31歳 | 日米修好通称条約調印 |
1859年 | 安政6年 | シーボルトが再来日し、再会。ポンペに入門 | 32歳 | 安政の大獄 |
1860年 | 万延1年 | 桜田門外の変 | ||
1861年 | 文久1年 | シーボルト、幕府の顧問となり、周三を通訳に上京するが程なく解任。周三は幽閉 | ||
1862年 | 文久2年 | シーボルト、帰国。二宮敬作没 周三、入獄 | 坂本龍馬、脱藩 | |
タダ(高子)と宇和島へ赴き、藩主宗城に面会 | 35歳 | |||
1863年 | 文久3年 | 高杉晋作が騎兵隊を結成 | ||
1864年 | 元治1年 | 長州征伐。池田屋事件 | ||
1865年 | 慶應1年 | 周三、出獄し帰郷。宗城に招かれ宇和島藩に出仕 | ||
1866年 | 慶應2年 | 高子と周三が結婚 | 39歳 | |
1867年 | 慶應3年 | 大政奉還、王政復古。 龍馬暗殺 | ||
1868年 | 明治1年 | 周三、大阪医学校の教授となる | 戊辰戦争 | |
1869年 | 明治2年 | 母、タキ没。大阪で高子夫婦と同居。 蔵六(大村益次郎)暗殺 | 42歳 | 版籍奉還 |
1870年 | 明治3年 | 東京に産科医開業 | 43歳 | |
1873年 | 明治6年 | 宮内省御用掛となり、明治天皇の第一子を取り上げる | 46歳 | |
1877年 | 明治10年 | 医院を閉め、長崎へ帰郷。 周三、没 | 西南の役 | |
1889年 | 明治22年 | 再度上京。産婆開業 | 62歳 | 大日本帝国憲法発布 |
1892年 | 明治25年 | 高、娘らを連れイネと同居 | 65歳 | |
1895年 | 明治28年 | 日清戦争 | ||
1903年 | 明治36年 | 食あたりのため永眠 | 76歳 | |
1905年 | 明治38年 | 日露戦争 |
オランダから長崎経由で流れ込んできた科学や医学などの学問(蘭学)が世の中をどんどん変えていた幕末、「蘭学は宇和島にあり」と注目されていました。
幕末の宇和島藩主、伊達紀城、宗城親子が熱心に蘭学を取り入れた国づくりを行っていたからです。
宗城は薩摩藩主の島津斉彬や福井藩藩主の松平春嶽、土佐藩藩主の山内豊信とともに「幕末の四賢候」といわれるほど尊敬されていますが、シーボルトの高弟だった二宮敬作を農民身分だったにもかかわらず武士に取り立てたり、幕府のお尋ね者だった高野長英を密かに呼び寄せ藩士の教育を行わせたり、村医者だった村田蔵六と貧乏な町民、嘉蔵を取り立て、初めて日本人だけで蒸気船を作らせたりするなど、当時としては考えられないような文明改革を行うなど、近代化を推し進めました。
1862年、おイネさんが娘のタダ(高子)を伴い、宇和島の宗城を訪れた際、宗城はタダを高と名付けたうえ、猶子夫人のもとに置き、16歳で嫁入りするまで大切に育てました。
高子は敬作の甥、三瀬周三と宇和島で結婚します。
結婚する前、周三は再来日したシーボルトの通訳として江戸城にっも上がるほどでしたが、幕府に目をつけられて入牢。
獄中で死にそうになっていましたが、宗城が幕府と交渉を重ね助け出したのです。
周三は明治維新後は宗城と共に大阪や東京へ上がり、新しい国づくりに奔走します。
ちなみにおイネさんの名前「楠本伊篤」は翌1863年に宗城が名付けたという説もあります。
おイネさんは13歳から約5年間、宇和島藩の卯之町で町医者をしていた敬作のもとで医学を学び、27歳から約4年間、卯之町や宇和島で蘭学を学んでいます。
卯之町でおイネさんが暮らしていた一帯の約4.9ヘクタールは国の伝統的建造物保存地区に選定され、江戸時代から昭和初期の町並みが息づいています。